探仏記Ⅲ ~気まぐれ仏像探訪~

気が向いたら出かけてみようか・・・

考察

運慶・大日如来はどんな顔 (2)

快慶展で三尺阿弥陀を拝観した際に、面部の金泥が剥落している像に関しては、快慶仏「らしさ」を感じられずにいた。元画像と睨めっこしても、想像力が乏しく頭の中でイメージできなかったため、画像処理を施して往時の様子を想像してみることに。

まずはこちら。運慶の大日如来と同じように模様のような剥落、これが像の個性のひとつとなっており、元の顔のイメージがしにくい。画像処理ツールで顔をベタ塗りしてみたが、表情や陰影などが失われてしまうため、金色が残っている部分の色を参考を使って剥落部分に重ねていった。また、眼部が暗く表情が捉えづらかったので白眼の部分をベタ塗りしてみた。剥落直前の状態、のような雰囲気にはなった。

hachiyou

これで見る限りは快慶らしさは何となく感じる事ができる。初期像のように眼が少々吊り上がってキリッとしているように感じる。

もう1軀、全体が剥落している像についても同様にトライしてみたのだが、あまりうまく仕上がらなかったので、こちらは顔全体をベタ塗りしてみたところ、まぁまぁ雰囲気がでてきた。イラストみたいになってしまったけど。左眼の眼玉の位置が画像が暗くてよくわからず、かなり想像で描いている。

saihoin

こちらも快慶らしさは感じる事ができる。先ほどとは異なり眼が少々優しげになっている。快慶仏後期の特色。

ポイントは「眼」。この眼力が快慶仏の個性のひとつになってると思うので、その部分をハッキリさせると顔全体のイメージがつきやすくなったような気がする。画像処理の巧い人がやったらもっとリアルに往時の姿を再現できると思うが、あまりテクがない者がやるとこのあたりが限界。


さて、お題目の「運慶の大日如来」だが、こちらの記事は以前にアップしているので今回は第2弾。

http://tetsuumadouji-2.blog.jp/archives/2053576.html

前回は金箔部分を地肌色に寄せてみたのだが、今回は逆に地肌部分を金箔に寄せてみた。金色の残った部分の色を剥落部分にのせていく、
上の一つ目の画像と同じ方式で画像処理。やはり剥落直前のような雰囲気になった。しかし、前回の画像の出来はひどい....画像処理の腕は多少は向上してるかも....剥落バージョンと、文化庁所蔵の摸刻像も追加して対比。

enjoji_

思っていたものとだいぶイメージが違った! 像容からして少々か細い印象があったが、頬も張っていてかなり量感があり、いかにも運慶仏という感じがする。今秋の運慶展には大日如来もお出ましになるので、この量感ある往時の姿を踏まえて、じっくりと対峙してみたい。


※あくまでも個人で画像を編集したものであり、何ら考証したわけでもなく、個人の想像・創作がふんだんに入っているので注意。(画像転用・転載はご容赦を)

定智本と宝城坊・十二神将

昨日アップした「定智本と十二神将」で、どうも宝城坊の十二神将の割り振りがしっくりとこない。再度図像と比較をして、以下のような結論に達した。

■子・卯・辰・巳・未・戌・亥の7神は正しいと思われる
■丑神は7号尊よりも11号尊の方が近い
■酉神は11号尊よりも7号尊の方が近い(つまり丑⇔酉を入れ替え)
■午神は12号尊よりも5号尊の方が近い
■残る寅・申の2神は該当なし(10・12号尊は図像にない?)

以下、比較表。
12_08
12_09
12_10

この結果を踏まえて、昨日アップした「定智本と十二神将」の内容は差し替え。そもそも宝城坊・十二神将は定智本と完全一致する、とは誰も言っておらず自分が勝手にそう思い込んでいただけかも。いせはら文化財サイト(宝城坊・十二神将のページ)にも「定智本とこ れほどまでに一致する彫像は他に例がなく、・・・・」とあり、全てが一致するとは記述されていない。従って10・12号尊を除く10躯が図像と一致する、という結論なのかもしれない。

定智本と十二神将

4月30日に静嘉堂文庫美術館で受講した「十二神将像のひみつ―浄瑠璃寺伝来の一具と運慶」(講師:山本勉氏)の中で、伝浄瑠璃寺の十二神将は4躯を除いて定智本と一致しているとの解説があった。(※5月4日一部訂正: 詳細は「定智本と宝城坊・十二神将」を参照

そもそも定智本とは何か?伊勢原市のホームページ内、いせはら文化財サイト(宝城坊・十二神将のページ)に以下のような説明がある。
・・・・ これらの像は、平安時代の長寛2年(1164)に絵仏師である長覚房定智(ちょうかくぼうじょうち)が唐本から写した十二神将の図像(通称「定智本」)と非常によく似ていることが確認されています。・・・・

定智本の原本はメトロポリタン美術館他に分蔵されてるらしいが、東博に写本があり以下がその画像と思われる。(違ってたらごめんなさい)
12_00

各尊を比較してみるが、比較対象として定智本と一致してるという宝城坊像や慶派の十二神将などいくつかピックアップしてみた。
(1)伝浄瑠璃寺像(東京国立博物館・静嘉堂文庫美術館蔵): 4躯を除き
定智本と一致するとの解説あり
(2)曹源寺像(神奈川): 先月東博で展示があり見たばかりなので取り上げてみる
(3)興福寺
[東金堂所在](奈良): 定智本とほぼ一致する例
(4)室生寺像(奈良): 今見たい十二神将なので取り上げてみる
(5)宝城坊像(神奈川): 定智本とほぼ一致する例

 図像および名称が完全一致 
 図像と一致、名称は不一致
 図像と見方によっては一致


■子神:
 ど
の組にも図像に一致する像が存在する。
■丑神: 興福寺像・室生寺像は少々異なる気もするが弓を番える雰囲気があるので同体とみなす。
12_01


■寅
神: 特徴的な眺望ポーズはほぼ全組に存在、ただ宝城坊像にはそれらしい像が見当たらない。
: 伝浄瑠璃寺像のうち4躯は図像と一致しない、そのうちのひとつ。拡大図を見てわかる通り、魚の口から腕を通している姿を山本先生は「グロテスク」と表現され、不採用の理由として挙げられていた。
12_02

12_卯


神: ほぼどの組にも図像に一致する像が存在する。曹源寺像のみ剣の持ち方が若干微妙。
■巳神: 膝に獣の首のようなものを着けており「グロテスク」につき伝浄瑠璃寺像では不採用。その他は持物が異なる像もあるが同体とみなす。
12_03

12_巳


神: 伝浄瑠璃寺の巳神・宝城坊の5号尊はかなり近いが、その他は一致する像がほぼない。曹源寺像に至っては室生寺像と右手の形が同じというだけで選出してるので相当微妙。
神: こちらも足を獣の首に通して「グロテスク」ながら、伝浄瑠璃寺像では未神が一致する。長らくこのポーズが疑問であったが図像で三叉戟を下に向けて突き刺すように持っていることが判明(※イメージ図を参照)。一方、他の組では似た雰囲気はあるものの全て戟の向きが逆でこれに相当するかは微妙。宝城坊6号尊は上側の右手の向きが図像と異なるものの一番図像に雰囲気が近い。
12_04

12_未12_未2


神: 「グロテスク」シリーズ第4弾は帯喰と呼ばれる胴部に獣面を着けているもので伝浄瑠璃寺像では不採用。図像のなかでは一番地味な合掌スタイルのせいか興福寺像以外では採用されていない。宝城坊像の中でも合掌スタイルは見当たらず。
■酉神: これもあまり一致する像がない。宝城坊像は剣を持っていないが腕の雰囲気が似てるので同体とみなす。
12_05

12_申


神: どの組にも図像に一致する像が存在する。ただし持物が異なる場合がある。
■亥神: どの組にも図像に一致する像が存在する。
12_06


■どれにも一致しない像 
選外① 剣を杖代わりにしてるポーズ。曹源寺像は杖は突いてないが雰囲気は似てる。
選外② 頬杖ポーズ。2組のみと少ない。
選外③ この3像は共通しているが、よくあるタイプのポーズで特徴はない。
選外④ 共通項が・・・・無い。
12_07


■まとめ 
(1)伝浄瑠璃寺像: 9躯が一致
(2)曹源寺像: 9躯が一致(うち3躯は微妙)
(3)興福寺
: 11躯が一致(うち1躯は微妙)
(4)室生寺像: 9躯が一致(うち1躯は微妙)
(5)宝城坊像: 10躯が一致

・・・・という事で伝浄瑠璃寺像は鉄馬童子カウントでは3躯
除いて(山本先生説は4躯)全て一致していた。また、興福寺・宝城坊像がほぼ一致しているという事は改めてわかった。

子・丑・寅・辰・戌・亥の6神はほぼどの組でも存在している事からスタンダードなポーズになっていて、残りに関しては山本先生説のような「グロテスク」とか、他の図像に倣ったなどの理由で不採用になっているものもあると考えられる。曹源寺は鎌倉に近いので武士仕様で戦闘的になってるとか、そんな事を想像してみても楽しい。


さて、これまでも過去のブログで十二神将比較(単純なポーズの比較だが)はさんざん書いてきたのだが、今回のようにオリジナル(図像)と比較するのは初めて。そもそもこれまでは何を元に制作されたのかまでは
あまり興味がなかったので、十二神将に関しては今回の講演で少し理解が進んだように思う。十二神将図像に関しては、この他に醍醐寺本なるものもあるようなので、機会があればそちらも比較してみようかと思う。 

仏師・行快の仕事(2)

前回 「仏師・行快の仕事」 を記したのが昨年の12月19日。

当然ながらWikipediaで『行快』を検索して確認したのだが、その時には作品がそれほど多く記載されていなかった。様々な書籍を確認しつつ、自分なりに行快仏を特定してみたのだが、今日改めてWikipediaで『行快(仏師)』を確認してみると、あらら、沢山作品群が載ってる。更新日付が2015年12月18日 (金) 05:50 となっているから、記事をアップした前日には更新されていたようだ。まったく気付かず。


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《Wikipediaより》
●「地蔵菩薩立像」 藤田美術館蔵 「巧匠/法眼快慶」「開眼/行快」
「十大弟子像」のうち「優波離」 大報恩寺 「法眼/快慶/□□/行快/法橋」 「阿那律」「富楼那」が仏師のクセが出やすい耳の造形が近く、特に「阿那律」は同寺にある釈迦如来坐像と横顔における耳の配置なども酷似し、行快作の可能性が高い。
「阿弥陀三尊像」のうち「観音菩薩像」 滋賀・西教寺 「巧匠/法橋行快」
「阿弥陀如来立像」 極楽寺(城陽市) 「法橋行快」
「釈迦如来坐像」 大報恩寺 「巧匠/法眼行快」
「不動明王坐像」 金剛寺(京都国立博物館寄託)「造立大仏師法眼行快 小仏子字肥後公 字丹後公」、「天福二年」の墨書銘が見つかり、天福2年(1234年)行快の作であることが判明した。本像と対となる降三世明王坐像(奈良国立博物館寄託)も、銘記は確認されていないが、行快作である可能性が高い。
「阿弥陀如来立像」 阿弥陀寺(長浜市) 「巧匠/法眼行快」
「千手観音像」(第490号) 蓮華王院 「法眼行快」
「阿弥陀如来立像」 北十萬(大阪) 「巧匠/法眼□□」

行快作の可能性が高い像
「阿弥陀如来立像」 浄信寺(滋賀県) 「□□法橋行□」
「阿弥陀如来立像」 遍照寺(三重県) 1230年代頃か
「阿弥陀如来立像」(三尊のうち) 峰定寺 1230年代頃か
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自分が調べたものと比較してみる。(画像は前回記事からの使い回し) 
gyokai-1
gyokai-2
gyokai-3
[行]Wikipediaで行快仏とされてる
[推]Wikipediaで推定行快仏とされてる
[無]Wikipediaでは記述なし


■鉄馬童子選:行快作
[行]1.大報恩寺(京都)釈迦如来1227年頃「巧匠法眼行快」
[行]2.妙法院(京都)千手観音1249~63年「巧匠法眼行快」
[行]3.阿弥陀寺(滋賀)阿弥陀如来1235年「巧匠法眼行快」
[行]4.極楽寺(滋賀)阿弥陀如来1227年「法橋行快造之」
[行]5.北十萬(大阪)阿弥陀如来13世紀前半「巧匠法眼」
[無]6.浄土宗(京都)阿弥陀如来1212年推定 ※旧・玉桂寺(滋賀)所蔵
[推]7.遍照寺(三重)阿弥陀如来鎌倉中期推定
[行]8.金剛寺(大阪)不動明王1234年「造立大佛師法眼行快」
[推]9.同上降三世明王同上推定
[行]10.西教寺(滋賀)観音菩薩1216~27年「巧匠 法橋行快」
[無]11.同上阿弥陀如来同上推定
[無]12.同上勢至菩薩同上推定
[推]13.浄信寺(滋賀)阿弥陀如来1216~27年「□□ 法橋行」
■鉄馬童子選:行快または周辺仏師による作、快慶補佐としての作
[推]E1.峰定寺(京都)阿弥陀如来12xx年行快または周辺
[無]E2.常福寺(富山)阿弥陀如来12xx年行快または周辺
[無]E3.西岸寺(滋賀)阿弥陀如来12xx年行快周辺
[無]E4.華階寺(滋賀)阿弥陀如来12xx年行快周辺
[無]E5.青龍寺(滋賀)阿弥陀如来12xx年行快周辺
[行]E6.大報恩寺優波離1220年「法眼快慶□□行快法橋」銘(快慶補佐)
[推]E7.同上阿那律同上推定(快慶補佐)
[推]E8.同上富楼那同上推定(快慶補佐)
[行]E9.藤田美術館地蔵菩薩1208~23年「巧匠法眼快慶」「開眼行快」銘(快慶補佐)

行快銘がある仏像は
8躯 Wikipediaでは9躯
推定行快とされる仏像を加えると13躯 Wikipediaでは15躯

自分のカウントと異なるのが、大報恩寺・優波離と藤田美術館・地蔵菩薩が行快作とされているところ。
逆に西教寺・阿弥陀如来&勢至菩薩は明記されておらず、浄信寺・阿弥陀如来も推定行快作とされている。
浄土宗(旧玉桂寺)・阿弥陀如来は推定仏にも記載されていない。浄土宗のHPには「・・・
快慶の直弟子の行快作と想定される。」とあるけど。

先ほど気付いたため、あまり調べる時間がなかったのでまた今度いろいろ確認してみようと思う。
 

仏師・行快の仕事

注意:内容が冗長であり、内容についても個人調べの程度という事を最初に記しておく
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快慶・三尺阿弥陀を調べてて、別で気になったのが快慶の高弟である行快の仏像。行快仏は10躯近くあるようだが、あまり詳しくは調べてないので、過去の銘文発見時の新聞記事などで情報を探してみた。

①快慶の一番弟子、行快の作 大阪・金剛寺の重文仏像 (2010年11月
article1  『大阪府河内長野市の金剛寺にある重要文化財「不動明王坐像」(像の高さ258センチ)が、鎌倉時代の仏師快慶の一番弟子だった行快の作と分かり、同市教育委員会が10日発表した。修理方法などについて指導している長田寛康大阪経済大教授(美術史)は行快作とされる仏像はほかに7体あるが、今回のが最大で代表的な仏像となるだろう。制作年代も判明したことで、寺の変遷も分かる」としている。(後略) 〔共同〕

行快の作の仏像と確認 [滋賀] (2011年7月
article2 『滋賀県大津市の天台真盛宗総本山・西教寺に安置されていた木造阿弥陀三尊像の1体から、鎌倉時代を代表する仏師、快慶の一番弟子・行快(ぎょうかい)の墨書が見つかり、2011年7月15日(金)、大津市歴史博物館が発表した。銘文で行快作と確認されたのは7件目で、その中では最古。鎌倉初期の1216~1227年ごろの作品とみられる。行快の作品は大きな目やきつい表情などが特徴とされてきたが、同像の目は細く、優しい表情で快慶の作風に近い。(後略)』 〔InternetMuseum〕

長浜市指定文化財 木造阿弥陀如来立像(浄信寺) (2013年9月
 article3『(前略)平成24年に、大津市歴史博物館と東京文化財研究所が実施した文化財調査によって、左足枘(あしほぞ)外側に記された墨書きが「□□/法橋行」と読めることが判明しました。(中略行快の銘をもつ作品は全国で8例ほどが確認されていて、県内では、同じく法橋時代の作である大津市坂本・西教寺阿弥陀三尊像や、法眼時代の作である西浅井町菅浦・阿弥陀寺阿弥陀如来立像(1235年、重要文化財)などが知られます。(後略) 〔ながはまの文化財〕



記事①より金剛寺像・西教寺像・浄信寺像を除いて7躯あることになる。Webや文献を検索した結果、行快仏7躯は以下の1~7あたりになるかと思われる(順番は適当)。ただし、6・7は若干あやしい....「
行快作と想定される」「行快の作風に極めて近い」といった表現であくまでも推定行快作。

1.大報恩寺(京都) 釈迦如来 1227年頃 「巧匠法眼行快」
2.妙法院(京都) 千手観音 1249~63年 「巧匠法眼行快
3.阿弥陀寺(滋賀) 阿弥陀如来 1235年 「巧匠法眼行快」
4.極楽寺(滋賀) 阿弥陀如来 1227年 「法橋行快造之」
5.北十萬(大阪) 阿弥陀如来 13世紀前半 「巧匠法眼」
6.浄土宗(京都) 阿弥陀如来 1212年 推定 ※旧・玉桂寺(滋賀)所蔵
7.遍照寺(三重) 阿弥陀如来 鎌倉中期 推定

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記事①~③の仏像は以下の8~13の6躯。

8.金剛寺(大阪) 不動明王 1234年 「造立大佛師法眼行快」銘 ・・・記事①
9.同上 降三世明王  同上 推定
10.西教寺(滋賀) 観音菩薩 1216~27年 「巧匠 法橋行快」銘 ・・・記事②
11.同上 阿弥陀如来  同上 推定
12.同上 勢至菩薩  同上 推定
13.浄信寺(滋賀) 阿弥陀如来 1216~27年 「□□ 法橋行」銘 ・・・記事③
 
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以下のように記事の内容と照合しても矛盾がないように思える。(前述のように6・7あたりはあやしいけど)
②の記事:1~12の中で7件(1・2・3・4・5・8・10)に銘あり。
③の記事:1~13の中で、13は銘がある仏像としては8例目。


上記が正しいとすると、結論として...

行快銘がある仏像は
8躯

推定行快とされる仏像を加えると
13躯


...となる。半分以上が阿弥陀如来だが意外と多作、ここ最近1~2年おきに発見されてるので今後も増える可能性がある。ただ、拝観したことがあるのは金剛寺像、妙法院像、浄土宗像の4躯のみ、なかなか拝観は難しそう。
他に銘がある仏像、行快系統と想定される仏像は以下の通り。E6~E9は行快が作った可能性はあるものの基本的には快慶仏として扱われてる。

E1.峰定寺(京都) 阿弥陀如来 12xx年 行快または周辺
E2.常福寺(富山) 阿弥陀如来 12xx 行快または周辺
E3.西岸寺(滋賀) 阿弥陀如来 12xx 行快周辺
E4.華階寺(滋賀) 阿弥陀如来 12xx 行快周辺
E5.青龍寺(滋賀) 阿弥陀如来 12xx 行快周辺
E6.大報恩寺 優波離 1220 「法眼快慶□□行快法橋」銘 =快慶仏
E7.同上 阿那律 同上 推定
E8.同上 富楼那 同上 推定
E9.藤田美術館 地蔵菩薩 1208~23 「巧匠法眼快慶」「開眼行快」銘 =快慶仏

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行快仏は快慶の作風を踏襲しつつも、吊り目気味な顔立ちや、釈迦如来・明王像など堂々たる体躯で快慶仏以上に迫力があり、独自の個性を確立している点が魅力的。10年ほど前の書籍 「日本の美術(No459) 鎌倉時代の彫刻」 に興味深い記述がある。

 『大報恩寺や阿弥陀寺像を見ていると、行快は徐々に運慶風に心惹かれていったかにみられる。逆に湛慶は、快慶との造像も多く、快慶の影響を受けたように見えるのは面白い。』


運慶の後継=湛慶が快慶に、快慶の後継=行快が運慶に、それぞれ傾倒していったのだとしたらそれは慶派の棟梁・運慶には看過することができなかったかもしれない。もしかしたら運慶が生前に、快慶に傾倒していく湛慶に危機感を覚え、自分の作風を踏襲する次男・康運(=肥後定慶)に慶派の嫡流を継がせようとして三代目に康運の子息・康円を指名したのかもしれない。(康運=肥後定慶、康円=康運子息は一説であり、異説もある) 運慶没後、三十三間堂の復興事業では湛慶・康円・行快が慶派の代表格として共に活躍しているのは興味深い。後継者にしてみれば常に運慶と比較されるのは辛かったのかもね。いずれにせよ、時代と共に仏像の需要減退もあって運慶風は徐々に影を潜めていくことになる。

行快仏を調べてたはずがいつの間にか色々と妄想してしまった。仏像を
二次元でしか見ていないとこうなるので、年末にはどこか仏像拝観に出かけないと。
 
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